昭和45年3月23日 春季霊祭
末永静行
御理解の内容 「和賀心時代を創る」
項目:・和賀心時代の必要性
・和賀心とはどういう心なのか
・和賀心の手立て
・世界宗教との比較
子が孫が、またはその遺族のものがね、そこにあるということ、そのことが有り難い。そこに親の事は子が頼み、子の事は親が頼みと、ね、頼み合いいたせと仰る、有り難いものが生まれて来るんですね。ね、どうでしょうか、えー、本当に先祖の有り難さと、ご先祖様のおかげで今日私があるのだと、いうことをですね思わして頂くところから、いわゆる、ご先祖様を大事にしなければおられないことになってくる、ね。そこに、えー、ご先祖様の働きが、ね、そのお喜びが、また私共の上に照り返ってくる。ね、いわば親と子とが、あー、お礼を言い合うようなおかげというものがね、私は霊様のお祭りを仕えるたんびにそのことを私は思わせてもらいます。
今朝、私、忘れてしまってたんですけれども、若先生がお祭りの、あの、ことを神様に奏上いたします、今日の霊様のお祭りの事を。それで、いわゆる奏上文ですね、それに、ま、祓詞と申しますが、その祓詞の中にね、んー、蘭の花咲き香る、ま、良き日ですね、美し、うまし日とこう申します。蘭の花咲き香るという、そのことを繰り返し頂きましたから、今日はあの中に、お祝詞の中にそのことを書いてもらおうと私は思っていたんです。ところが忘れてしまってましたから、それを、いたしませんでしたけれども、蘭という事はね、ここではあの、蘭のお知らせは分からんという、分からんというお知らせなんです。ね、私共がですね、ご先祖様喜んでござるだろうとか、んー、霊様の働きといったようなものが、とうどやこうどと言うてもです、実際は私は分からんのが本当じゃないかと、分からん、目に見えないと、うん。だから結局、まあ、一生懸命な思いを込めてですね、まあ、なさった、例えばんーならお供えでもなさる、私共でも一生懸命、まあさせていただくんですけれども、ね、本当の事を言うたら分からん。ね。
教祖様でもやはり、死んだ先の事は分からんと仰る。どうなるか分からんって。ただ、土(どろ)になる事だけは間違いがないと言っておられます。ね。ところがその、またの教えには、「金光大神は形がのうなったら、来てくれという所に行ってやる」とも仰っておられる。ね、ですからね、そのー本当に、皆様がです、例えば霊様の実在というか霊、霊様を生き生きとして、えー、ここに現させて頂けれるほどしのね、そのー、働きというものはね、もう本当にもっともっと有り難い良い信心をしなければ分からんのです。ただ先生がああ言われるから、しかももっともらしゅう言われるから、また実証までも、例えばね、いろいろ霊さんの物語りもなんかもして下さって、なるほど、おー最近は心霊科学なんかというものがあって、もう、あちらの世界の様子が写真にまで撮られるといったような時代であってもです、まーだみんなが本当に分かっとらんとです。本当に分かったらね、とてもとても今日はね、もう店しとる者なら店をやめて、もうそれこそ家内も子供も、さあ婆も爺もというて今日はお参りしなければおられんのです。本当に分かっとらん。ね、まあおぼろげながら分かっておる。だからね、それでもやっぱり神様がおられ、霊様がおられるように、神様の、霊様の働きがあるように、まあ聞くから、まあ一生懸命ぼた餅、甘いものが好きだからぼた餅をね、辛い物が好きだったからお酒をという風に、まあいうなら思いを込めておられるけれどもです、まーだそれは決してほんなもんじゃないとですよ。ね、それは金光大神のお取次ぎによって、その事が神様にも通じ、霊様にも通うておる事は間違いないですけれどもです、私共は本当にせ、その、霊様、お先祖様がね、御先祖様あって、私共の今日があるという有り難さをです、本気で分からせて頂いたら、本当に分からせて頂いたら、霊様に対する、ね、例えば姿勢というか、態度というものがもっともっと変ってくる。ね。
昨日、霊さんのお祭り前にはいろいろと、それこそ皆さんが分からんから、ね、皆さんが本当に分からんから、はーやっぱり霊様っちゃあこりゃ本当にござるとばいと、いうようにその、まあ実証的なことをね、様々なお知らせの中にやら、お夢の中にやらお知らせを下さりますですね。
夕べも夜の御祈念に土居の久富さんがお参りされました。あちらのおじいちゃんとおばあちゃんが非常にその、甘いものがお好きであった。だから、家内と二人で話し合って、えー、お餅をついて、お供えさせてもらおうじゃないかと言うて、前の日に話し合って休ませて頂いた。ところがね、お夢の中で、一生懸命二人でお餅をついておられる。ところがね、おじいちゃんおばあちゃんじゃなくて、そのもうひとつ上の、おばあちゃん、いわゆる、久富さんの父母じゃなくておばあしゃんにあたられる方がね、一生懸命お餅をつくところの邪魔をされる。とうとう、その、つかれんようなことになってしまった。で、目が覚めたとこう言うわけです。ね、そうして、まあ、気付かれた事なんですよ。はぁ、私は父にや母にとばかり思うておったが、そのまた父があり母があり、お先祖様があった。どうしてお先祖様に甘な辛なを一つもお供えさせて頂こうかと思わなかっただろうかと思うた。ね。
今朝からの御理解じゃないけど、大きな信心をしよう、大きな信心をしようとこう教えてくださるがです、ね、もう自分の亡くなった主人なら主人のことだけは御霊様を大事、それこそ、もうそこに生ける人に、物言うごとくね、えー、お供え物でも何でもなさるけれども、そのお父さんの、いわゆる主人のお父さんになったりお母さんになったり、する人達の事は忘れとる。こういう、いわゆる偏見な信心ではいけないと思うんです。ね、お互いが本当に、いー、お先祖様をね、本気で大事にさせてもらう。だからいうならばです、ね、これはもうじじばば、両親の事だけは孫どんが一生懸命しおるばってん、婆のこつやら爺のこつやらいっちょん思わんと、いうことじゃないでしょうかね。だから、邪魔をしなさる。というようにね、そういう風に頂いてね、初めて、初めてっていうか、それとてもです、まだ本当なことには分からん。それこそ、おー、蘭の、おー、香りが一杯なんです。分からん香りが一杯なのだ。ね、そこでですね、私が皆さんに提起するというかね、まぁ、聞いて頂きたいことはです、ね、それが本当にですね、分かってくるという事、ね。
これはね、話は、御霊物語なんかを聞きますとね、まあこれは昨日、一昨日が親教会の、おー、霊様のお祭りでした。ちょうど、役員の先生がお参りしおうておられましたから、役員の先生のお説教を聴きました。先生はどちらかというと、教学肌の方ですけれどもですね、いわゆる霊様の実在を、もういろいろな、じ、実話を持ってお話になりました。ね、いわゆる、幽霊が出るという話をなさいました。ね、それが、お祭りをしたら助かって出らんようになったと、いったようなね、えー。
ついこの頃も(きご?)小学校の前に五階建ての、お家があるそうです。そこから飛び降り自殺をした。そこに、そ、よ、夜な夜なじゃなくて朝朝でしょうねぇ、新聞配りが見たっちゅうんですから。朝、その、出てきた。それからもう新聞配りがそこからもう行かんちゅうことんなった。それは、新聞配りだけじゃない、だれも、それを、じっ、また、何人かの人が、実証するような人達がでけてきた。というようなね、話をなさいました。これはね、もう本当に御霊物語は面白いです。ね、だから面白半分で聞いとったっちゃですね、ほーっちゅうただけでもう絶対、先祖様に通うようなね、ものは生まれてこないです。そうかなあというだけだ。ね、
ですからね、そういう例えば幽霊やら見た事はなくても、霊様の声は聞いた事が無くてもです、ね、本当にお先祖様を大事にしなければおられないというのが私は真の信心だと思うです。ね、お互いがね、一つ本気で真の信心、ただ、霊様だけを大事にすればといったような事ではない、それをね、例えて申しますとどういう事になりましょうか、あー、御信心がなかっても御先祖様なんかを大事にお奉りされる所がありますね。そういうところはね、その、本当に霊様の実在の、そういうことは良くわかっておられなくてもね、先祖様はただ大事にしなきゃならんもんだといったようなね、観念が、そうさせるわけです。けども、本当は実はなかってもです、そういう形の上だけでもできるとです、やっぱりその家は繁盛したり、やはり、なんとはなしに、その、おかげが頂けておるという事実が世の中にたくさんありますよね。ご先祖様を大事にしなさるから、儲け出しなさるといったような、ね。
ですから、それはどういう事かと言うとね、えー、最近、まあここでは口を開けば和賀心という事が言われるんですけれども、そのー、和賀心ということはなかなか難しいけれどね、和賀と思うただけでおかげになるという、ね、和賀心にならなくても、和賀心になろうと思うただけでもおかげになるし、ただ、わ、わが、和賀とね、例えば自動車に乗る時に、あ、和賀と、生神金光大神様、和賀心と、こう、和賀と、和賀心になってなくてもそれを言うただけで交通安全は神様が請け負うて下さると仰る。ね。
ですから、そういうような意味でですね、ご先祖様を大事にせにゃいけん、ほんなことは分からん。ね、分からんのだけれども、まあ大事にするもんだとして大事にする、そ、心、思いがそこ、込められるということは無いのだけれどもね、本当に、例えば先祖様が今日はここにみんな集まられて、そして、今日、先祖様に玉串を差し上げる、いわゆる、面接面会が今日は出来るんだと、本当に分かられたらね、とてもとても、まだこれの何十倍ちゅう集まってくるはずです。分かっとらんからこのくらい、ね。本当は分かっとらんとに、ね。だから、それを私共がです、信心させて頂くことによって、何をするにも、信心になれよ、真心になれよという信心を頂いてまいりますとです、それが出来るようになる。出来るようになるとですね、そこからはっきり、なるほどと合点がいくような事が起きて来るのをおかげというのです。ね。
鳥栖の、上野さんところの娘さんが今鹿児島の方へ転勤になっていっております、子供二人で。ね、この十三日会に、あちらのお母さんがお参りをして、それこそもう横におったもんが、こう、ふる、震えてお話をしなさったというほどしに感激して、お話をされた事があるんです。あちらは(みやこさん?)、といいますが、んー、(みやこ?)から手紙が来た。この頃もう、教会から離れておるから、信心が出来んから、なにか御神米を送って頂きたい、教えの一言も書いてほしいと言うて、あのー、手紙が来たから、ここにお願いにみえた。それで私が、その、いわゆる和賀心の和賀という、和賀という心だ、字を御神米に書いて、かえらした、あのー、もたした、ね、そしてその、和賀ということについて今私が申します、その、和賀心にはなかなかなれんけれども、ね、はぁーほんなこげな、こげな心じゃいかんけれども、和らぎ、和らぐ心にならにゃぁいかんのだけれども、本当に、賀の心と言やあ、あー、祝賀の賀と仰る、喜びの心、そういう様ないきいきとした喜びの心というものがなからにゃいかんのだけれども無い。けれども和賀心になればおかげになると仰るから、と、例えばなれないことのお詫びをさせてもらうような気持ちでね、和賀と思うただけで交通安全のじゃから、いわば、家庭の上にもその通りのおかげが受けられるんだというような事を、詳しく、うー、書いてやった訳ですね、お母さんが。ね。
ところがちょうど十三日会の前の日に、んー、手紙が参りましたまた、あちらから。そしてその手紙にあることがですね、今日はもう大変におか、おかげを頂いたということが書き出しに書いてあって、実は一番下の息子さんがね、その、だいたい、寝小便をする、まだ4つかそんぐらいでしょうか。ね、ところが最近がそれがひどくなってですね、もう5分おきぐらい、10分おきぐらいに、その、おしっこが出る。それでもうとうとうこの寒いのに、その、もうかわ、乾かす暇が無いもんですからね、それをその、おー、お母さんももうモヤモヤしたわけですよね。それでそれこそ、その子供さんのお尻が青じむごとお尻げんぽうをくらした。ね、子供も泣きながら自分も泣きながらくらした。ね、そうしとるところへね、お母さんからの手紙が来たとこういう。その手紙に、その、「和賀心にはなれんでも、和賀だけにはなれ、和賀という事を思うただけでもおかげになる」と書いてあるのを見せていただいてです、弾き返されるようにね、その息子さんを、叩いた息子さんを抱き上げてから、お母ちゃんが悪かった、お母ちゃんが悪かった、お母ちゃんをこらえてちょうだい、感じてちょうだいと言うてその息子さんに、子供に詫びを言うたちいう。ね.
そしたら子供ちゃあ、まあ、ああ、本当にいいものですよね、今までそれこそあしるように泣いておったのが、お母ちゃんが詫びる気持ちになったらまたニコニコ笑うて、親の足元でまつり遊んでおったと。ね、その日はそれで済んだんですがですね、あくる日からですね、ぜんぜんその、おしっこせんごとなった、ね。本当にまあ、あー、和賀心の有り難いこと、ね、和賀心にならなければおかげにならんのじゃない、和賀心になろうと向きを替えただけでおかげになるということ、ね、和賀と思うただけでおかげになるということ、の例なんです。
霊祭でもそうです。ね、本当に今日はお父さんの御霊様がここに来なさる、お母さんの御霊様とも会い、ここで会えれる。本当にそれが分かったらですよ、とてもとても、今日は何をおいても休んでも来なければおられんのですよ。ね、まあ、おかげを頂いて家族中で今日も皆さん、んー、玉串あげられた方がいくらもございましたがです、ね、そうするとね、やはり御霊様も喜んでござるだろうという気がするです。ね。
例えば親戚、親戚じゃない、その、まあ、自分方、代表で自分が玉串あげりゃぁそれで、ほっ、とてもそういう不親切な事でよいだろうか、親、親様に、または先祖様に、ね、それがね、分からんからそうなのです。ね、分かったごとして分からんから、ね、今日はもう誰でん、今日は、もう休みなさい、お店は閉めていくよ、みんなで、私はそういうものがね、私は出てくるということが有り難いと思うんです。そういう生き方から私は御霊様がござる、神様がござるという、私は本当のおかげも生まれてくる、それが本当のものじゃなくても、和賀というだけでも寝小便ぐらい止まるというのですから。ね。
そこでね、教祖様の神様が教えて下さってあるところの、いわゆる天地書附、または御神訓にもあります、ね、「生神金光大神 天地金乃神 一心に願え おかげは和賀心にあり」と、または御神訓には、あー、「今月今日で一心に頼め、おかげは和賀心にあり」と、ちょこっと違いますね、頼むと願えがちょっと違う、ね。だからね、教祖様の教えて下さるそのことがね、例えば私共がんーなら、神様には願うものように一生懸命願うんです、ね、だから、それ、いわゆる一心に頼めい頼んでおる訳なんです、ね、今月今日で一心に頼んでおる訳なんだ。
そこで、次にはね、ね、おかげは和賀心にありと仰っておられるのはこれはそれに対する神様の御返事なのですよ、ね、一心に頼むということは氏子のほうの側、そんならば、なら和賀心になってくれよと、おかげは和賀心にあるんだぞと教えて下さってあるんです、ね、ですから、私共がその和賀心にならせて頂くということがです、ね、例えば、ここではそれは今、和賀心学と私は言うております、私は20年間、この方説いてまいりましたことは、その和賀心学を説いてきたと思うんです、それをもう少し系統立てて、ね、その和賀心の説明をあらゆる角度からです、なさってくださる、分かりやすくしてくだされば、いよいよまた有り難いことになるでしょう、ね、もう金光様の信心の生命なのですこの和賀心というのは、命なんです、ね、だからこれを抜きにして、私は受けたおかげというのは、それは実にもろい、ね。
だから一つ本気でね、いわゆる、合楽の信奉者のすべての方達がですよ、ね、いわば、和賀心というそのことにですね、取り組ませてもらう、ね、私が最近その事をそう言うております。今年という年柄はね、もうじがひでもどうでもここんところへですね、本気で和賀心時代というものに突入したんだから、ね、お互いの姿勢というものがそこに向きを替らなければならない年柄なのだと、人間の知恵やら力やらの限りを尽くして出来たことが、ね、そのことで人間の幸福というものは、あー、それとは違うものであるということが分かった年というても良いぐらいなんだ、ね、人間が月の世界にでもいけれるといったような時代になったもの。
仏教は仏教、キリスト教はキリスト教でね、やはりそう言う意味において世界総人類の人達の上にです、ね、仏教は慈悲を説き、キリスト教は愛の心をです、世界中の人達に分かってもらいたい、そして、皆が愛し合えれるものを作っていきたい、ね、というように、やはり、願うておられんです、ね、所がですね、私はこれはね、本当に世界中の人達に染み通うて行くものを持たないと思うのです、慈悲とか、または愛ということは、ね。
それはね、慈悲の心も有り難い、ね、仏様のような心は有り難い、愛の心も有り難い、ね、けれどもこれはいくらさかたんぼう立っちゃですね、これは世界中に広がっていかないですね、いわゆる、可能性がないです、広がって行くという可能性が。ところがね、和賀心という心はです、和賀心というものはです、もう世界中のね、どう言う隅々の人にでも、いわゆる、学問がある人にはある人に、ない人にはない人にでも、ね、それこそ、信心のない人にでも感で含めるように、もし相手が聞く姿勢を持ってくださるならば分かって頂けれる内容をもっておる訳です和賀心というのは、ね、しかもそれがですね、広がっていくもの可能性がある訳ですよ、ね。
人間は欲のないものはありません、ね、おかげ、いわゆる、和賀心におかげがあるというのですから、ね、やはり、やっぱり幸福になりたい、幸せになりたいからです、ね、和賀心になればおかげが伴うてくるんだということを話せば分からんことはない、ね。そこで、愛の心も慈悲の心もね、この和賀心を土台にして、ね、愛であり慈悲であるならばこれはまた別です、ね、人間ちゃですね、やっぱ、いくらどんなにね、愛の心を持ちなさい、慈悲の心を持ちなさいというてもです、ね、それは持つことは有り難いです、それは自分自身も助かることなのだ、ところが実際はなれないのだ、またなろうと勤めない、なぜかというと、おかげが伴わんからです、ね、人間ちゃそんなに汚い、おかげが伴うと、伴うというとね、それに精進しようとする、だから、どんなに言葉たくうに、また美しゅう言うてもです、現代の仏教委やらね、キリスト教ではもう、その、世界総人類の上のね、そう助かりといったようなことの上にはあまり役には立たないという事、まだ百年そこそこになったお道の信心ですよ、けれどもね、教祖の仰るその和賀心というものにはですよ、ね、おかげが伴うということです、ね、ですから、これをね本当に、本当に和賀心になればおかげが伴うんだと、このようなおかげが受けられるんだということをですね、私は示していくならばね、みんなおかげを頂くと思うんです。
そこで、私は皆さんにその事をお願いしておるわけなんです、そこで、私は私の和賀心にこのようなおかげが伴うたというてもね、あれは不のよかっつじゃろうぐらいになってくるです、私が一人だったら。
この頃の大祭の時に、先生方をそこにお送りしました、正面玄関から、てからこうやってその先生上ば見ながら、大坪あんたも不が良かったばいち仰った、どういうことが不が良かったか知らんばってん、やっぱこげんなんとがでけてけん不が良かったとこじゃ、やっぱ、不にこきゃでとるとですたいねいやば、(笑い)と言わんばかり言われんです。いえ、それは私の信心、私の和賀心に生まれたのですよと、まあ、言いたいところだけれども言うたって分からんからね仕方がない。
そこで、なら私だけではです、まあ、大坪さん不が良かったちうなってしまうから、合楽の信奉者の一人ひとりが、ね、和賀心になることによって、このようなおかげが受けられるというです、いうならば、そういう手本とも見本ともなるものをです、ね、私が引っさげての私世界の市場に望みたい。私はこの頃、もう今年はもうその事をしきりに思うんです。ね、これならね、どこの例えば僻地におる例えばど人のような人達でも、どういう文化の高い、ならアメリカとか欧州あたりの人達にでもです、ね、これなら分かるしですね、そのおかげを見たら飛びついてくるって必ず、ね。
私は先日もお話をしたことですけどもね、本当に例えばですね、慈悲とか愛とかというのはそれは神様のものであり、仏様のものなんですよ、ね、だから、それがまた神習わせて頂くということはどのように至難な難しいことかということを。
先月、え~、ローマ法の何とか言う方ですかね、その方が大阪の泉尾の教会の先生のところにね、そのメッセージがきとる、お手紙がきてある、ね、その中にですね、そのどうして人間が愛知られないのか、ね、愛というものがです、普遍的な原理にまで高められることをね、まあ、願っておる祈っておるとこういうておられるんです。愛というものがです、人間同士がどうして喧嘩するだろうか、どうして愛し合えないだろうか、ね、この愛というものがです、人間の幸福に繋がるものであるということをです、皆に分からせる、ね、そういう願いというものを持っておられるというておられるけれども、私に言わせるならばです、いくら愛とかそのなんとかというたっちゃね、それは染み通うてはいかんですよ、なぜかちいうておかげが伴わないもん愛じゃ、だから、キリスト教なんかには非常に偽善化が多いというのはそれなんです。もう、それはもう人を見たらもうほんなこてあーしてござるごとこうさっしゃる。
私は北京にですね、安藤さんと言う、女のお医者さんがおられました、もう、50週ぐらいなるじゃろうかと思う、もう長い間、その、まあ後家さんじゃったんですけれども、あちらで現地拮抗なさいます、まあ、兵隊さんの偉い方でした、この人がもう熱心なキリスチャンでした、ほんで、もう私のほほあたりもみえてもきてもですね、あなた方がね、御主人を愛し方が足りないち、もうちった愛しなさなんいけません、というてその、見本をしめなさる、示しなさる訳なんです、ね。
だから、主人が勤めから帰ってきたら、もうとりあえずもうお抱きついてからお帰りなさいませんといわにゃいかんち、でそれをやっぱり実行しなさる訳です。だから、そのとうと一時はよかったごたるふうじゃばってん、やっぱあんまり味すぎなさったけん別れなさった(笑い)、それはもう、( ?_ )あんたね、つるっと出てきてからお帰りなさいませんちいうてから抱きつく、それが愛、ね、だから、そういうですね、例えば形やらね、もうその、で、言うところの愛ではだめだと、おかげにはならんって、おかげには伴わないもの、ね、けれども、教祖様はそこをはっきり、ね、一心にたのめいというのは氏子願わならん、ね、それに対するお答えが和賀心にあると仰るんだから、なら、本気で和賀心にならせて頂こうと、なら和賀心というものがどういうものか、どういうふうにしていけば和賀心が生まれるのか、それをもうね、もう感で含める教えて下さってあるんです、合楽でのここ二十年間の私は御理解は全部そうなんです。だからね、今まではね、今まではです、おかげを受けられなかった、また、みんながそういう、いやば、聞いてきただけで本気にそうなからなかった、けれども、今年という年はです、ね、もういよいよ、もう、例えばね、もう、地球上に住む人間のすべてにです、ね、和賀心を分かってもらえれる、いやば、絶好の機会の年柄にあるんだと、人間の知恵やら力をもって最高の学問、最高の技術を持ってしてもです、そこには幸せというものはなかった、ね、人間が幸せになるのはまず心だと、と言い出した。なら、その心だけではいけない、いわゆる、和賀心でなからなければ、ね、人間の幸福につながらない、いわゆる、おかげにつながらないんだ、ね、和賀心にはね、おかげがついてくるんです。おかげなんかというのはげっさかとかなんとかいうんけれどですね、実際はね、おかげを頂かなければ立ち行かん私共は、ね、ただ愛をいい、慈悲をいうとってんいつまでん貧乏しとったっちゃでけんでしょうが、ね、ですからその和賀心なものこそが、だからキリスト教にでも仏教の方達にでもです、お道の信心の和賀心というものを分かって頂いて、それも、ただ分かって頂く、それを一つの学問にまでしていかなければならない、ね、それを私は和賀心学とこう。
だから、私共のその観念がです、人間というものはどんなに知恵があっても、力があってもです、ね、和賀心なしには幸福にはなれないんだということを思い知らせるということだけでもいいのです。ね、それを、例えば学問なら学問の上で例えばそれを義務教育のようにしてです、それを教えるということ、そして、本気で幸せになりたいというものはその和賀心を字をもっていったらいいわけですね、だから、そこんところをですね、例えばその思い込みを作らせるというまでが大変なこと、それは月の世界に行くまでにですよ、ね、例えば人間がいけれるまでに何億年もかかったかも分かりません、ついこの頃まではまんまんしゃというておったお月様の世界に人間がいけれるようにですよ、ね、私共が、まあ、私が今ここで言っておる、ね、和賀心時代に突入した今年という年は、だから、お互いが和賀心をですね、世界の隅々にまで広げていく、その、言うならば、千里の道も第一歩のところをです、一つ大事にさせて頂く、それを合楽の人達で受け持とうじゃないかというのが私の願いなのです。ね。
先月も、先ほど申しました泉尾の三宅という先生が、もうこれは世界一、日本一のお教会でもあり、また、自他共にそれを許しておられる教会なのです、ね、いわば、海外にも7回か、8回ぐらいお出でられましてね、その世界人類の総助け運動といったようなことに一生懸命奔走しておられます、そして、先ほど手紙が来たというローマ法にも面接されました、そして、金光教の信心の素晴らしい事を話されました。
ところが、ローマ法がそれに共鳴しなかったというのです、どういうことを話されたか、とにかく、私を見てください、泉尾の先生が言われた。50何年間願って、願って願い抜いてきて現在の拝める宮、あの泉尾の教会が出来たんだと、あれだけたくさんな信者が出来たんだと、いわば、自分のおかげを手本にして話された訳なんです。ところが、ローマ法はこうやって考えちから、それはどうもおかしいと私は思われたんじゃろうと思うのですよ、皆さん分かるですか、ね。これではね、世界の市場に出しても売れませんって、これでは。ね、願って願って願いぬいて、願いぬいた、なるほど、不思議にですね、一心不乱に願えばね、おかげが御利益が奇跡的なものは生まれてくるんですよ、やはり。けれども、そう言う信心ではね、世界に、いやば、布教する金光教という事にはなってこない。願って願ってこんなおかげを頂いた、皆さんも願いなさい、おかげを頂けれるというところではですね、少し頭の良い人が考えたらおかしいぞというのです、それはどうも金光教の信心がみそこのうた、ちょっとこれはおかしいじゃないかというでしょう、けれども、そういうことで御比礼を頂いてきた教会がどのぐらい多いか分からんです、百年間振り返ってみて、だからこそもう二代目には三代目には、いやば、閑古鳥鳴くようになっとるでしょうが、ね。
そこでです、もし私がね、泉尾の先生だったらね、ローマ法にそん時分からせきったかも知れんと私は思うぐらいでした、ね。ね。泉尾の教会が願って願って50年ぶりにあーいう拝める宮、それこそ、あおいでみなければデパートのような大きなお宮が出来たんだと、ね、けれどもね、願って願って願い抜いてから頂いたおかげは値打ちはなかって、なら合楽のお宮はどうか、ね、願わずしてこれがでけた、それこそ、こくぜんとしてここの田んぼの中にこのお広前が誕生したんだもん、ね、もちろん皆さんの願いはあったけれども、私自身の願いじゃなかったんだもの、いうならば、神様の願いがこのように成就したんだ。その神様の願いがこのように成就したということはどこにですね、その成就の元があったかというと、まあ、いうなれば、私の心の中、いうなら和賀心なのですよ、ね。
ですからね、本当に、いわば、和らぎ喜ぶ心をね、最高にまあ有り難いものにする為には、先ほど秋永先生も話しておられましたように、和の心というのは天地に通う、ね、天地との大調和ということなんです、ね、例えば、昨日はあのようにおしめりだった、今日はこのようなお天気であった。合楽が、いわば、椛目を通算して18年間仕えてきたお祭りにいっぺんもおしめりがなかった、ただ不が良かったじゃ済まされない、これはね、いうなら、天地との大調和がそこになされておったからなんですよ、ね。
和の心というのはね、そういうこと、和らぐというそれもそうです、ならお互いの心が和らぐ、けれども秋永先生がいうておったように、さぁー今和らぎよったと思いよったらもう一時間後にはもうイライラしとるというのですから、だから本当な和らぎじゃないことが分かる、ね、しかし、時々でも和らいだ心が有り難い、けれども、いよいよ、私は和らぐという心は天地に調和する心、そこで天地の心がわからにゃいけんということ。
先日、私、教祖様の、もう本当に合楽というところは有り難いところですよ、どんなに考えても。今、毎朝、私が頂きますこと、教祖のあのごりっ、教典、同時に教祖様の御理解以外の御理解というのがこれはもう極秘になっておるのです。それをもう本当に有り難いですね、あれ、ちょっと皆さんにいっぺん見せてあげましょうか。これは豊美の所のおじいちゃまが、まあ、いうなら、その、教学の体化でもあるし、まあ、一番の本部では今教団でも長老でありますから、古川家の所要になってる訳なんです、それを、あの、若先生がこれを見て見れというて借りてきたんです、ね、だから、これはもう絶対人には公開も出来ないことなんです、いうならば、まだ、教祖様がね、金光、生神金光大神の御神格を受けられる前の話なのですから、これが最高のものじゃないというので本部ではこれを出させない訳です。一部の方達だけが。でこのごろはもうこれをですね、これをきれいにこれと同じものが出来ました、まあ、本当に機会文明のその世の中というのはそうですね、あっという間にこれと同じものできてきたんです中もそのまま、だから、あれはもう合楽のね、宝物としてこれから保存させて頂いて、まあ、製本屋にやろうと、まあ言うております。
これを毎日私がその、その朝の御理解に合わせて頂くんですけれどもね、もう本当にそれはもう見事です。朝の御理解を頂かれる方は皆そこんところをそう同じ思われるだろうと思うんですがね、そのように間違いなく人間氏子の助かりをね神様が願うておれることをそういうことの中からでも感じられます。ね。
先日、この中にですね、こういうことが仰っておられることがあるんですよ、あれは黒住教ですかね、黒住ただなんとかいいましたげな、黒住ただあき、ただむねかね、という人がやっぱ同じ時代にそういう宗教をはじめられた方なんですね、それにいうておられることが、「天のことは言うなて、天のことはただむねに任せておけて、この方は地の事を説く」と仰る、そういう言葉がある、ね、天に任せよ地にすがれよなんてその分じゃでけておりますよね御教えが、けれども、天のことは言うなって、天の事はもうただむねに任せておけって、なかなか学者だったらしいから非常にその天理を説かれたらしいですね、黒住教の教主というのは。
だからこの方は地のことを説くとこう仰る。私は素晴らしいと思うですね、もう、天はね、これは私も同じような事を頂いてますよね、天恵地理なんていう言葉がありますね、私頂いた事の中に、もう、天はね、もう与えて与えて恵んで恵んでやまないものなんです、これは信心があろうがなかろうが、いわゆる世界重農事故におかげをやってあると仰るようにですね、もう降るうようにおかげというものはあるんです、だから天を拝まんでもよかっち、拝まんでんね、どういう悪人の上にで、いわば、天の恵みというものはあってるんだ、ね、その恵みの中にです、ね、宝石もありゃお金もありゃ健康すべてがあるんです、それをただ頂きとめきらんだけのこと、いいですか、天はね、もう恵みに恵みに与えに与えるものなんだ、だから、この方は地のことを説くと仰る。ね。
そこで、私共がその地のことをきかにゃ行かん、いわゆる、大地の心を心としての信心にならにゃいけん、それが受け物なんです、いわゆる、それが和賀心なんです。そうです、大地の心って、ね、だから、成り行きを大事にするといったような事はです、大地の心を心としておる一番の素晴らしい合楽の現われなんです。ね、大地の上にどんな汚い物を持っていっても平気で黙って、しかもそれを自分を肥やすものにしてさえ行くでしょう、そこから育っていくものがあるならそれに送ってあげるだけの物があるでしょう、これが大地の心であり、大地の働きなんです。
だから、教祖様が大地の事を説くと仰ったことなんかはこれは素晴らしいことなんだ、ね、だから、大地の心が分からにゃいかん、ね、心が分からせて頂くところから、その成り行きそのものが、いわゆる、神様の御働きとして、それを黙って合掌して受けていくという大地の信心が出来るから、ね、そこから生まれ来るのがです、ね、和賀心なんです、ね。
神様がね、神様が与えて下さった物を有り難いというて合掌して受けておる氏子の姿をごらんになる時、神様がそれこそ有り難涙を流して喜んで下さるだろう、普通の者はどうして自分だけがこんな難儀な目にあわにゃんならんじゃろうかと、自分だけが馬鹿らしいというないいかたをするのに、お道の信心をさせていただくのに、いや、合楽の信心をさせて頂く者は、みんなそれを合掌して受けていく、まあ、なんと有り難いことだというその有り難い心が私共の心に通うてくる、それが和賀心、和の心なのです、そこに、天地と調和する、いわゆる、大調和の心というものが生まれてくるんです、ね。
だからね、天の事は例えば、ね、拝む、また、次にはこう仰っておられます、ね、男と女がおらなければ子供が出来んけれど、子供がでけて親父が死んだぶんなら子供が立ち行こうがと仰る、母はおらん、あぁー、父親がおらんでも、いわゆる、母親はそんなに大事なものなんだ、大地はそんなに大地なものだ、ね、だから、例えば仏教なんかでは大地のことを忌みどというて汚れたもののように言うけれども、そうじゃない、いわば、大地こそがいわば、母の体内とも同じこと、そこから良いものが生みなされてくるんだと、四神様はその事をね、仰っておられる、二代金光様はそれをどういうておられるかというとね、うん、氏子おかげは神からでると思うなって、氏子の心からと仰っておられる、ね、いわゆる、神からはもう限りなくでておるんだけれども、それを受け止める心は氏子の心の中にあるんだぞという事なんです、ね、その受け止める心というのが和の心であり、賀の心です、賀の心のというのは正月の賀正の賀、いわゆる、これを、この教祖のお言葉の中にはですね、賀の心とは祝賀の賀じゃと仰っておられます。祝い喜ぶという事だと、ね、だから、そういう心になりたい、そう言う心を求めてです、お互いが勉強する訳です、合楽に通うてきて、いわゆる、もう、なるほど、なるほど、どういう角度から、ね、勉強させて頂いてもです、その和賀心の素晴らしい事が分からせてもろうて、そこからです、自ずと生まれてくるのが神心なのです、ね。そうでしょうが、ね、その神心の中には慈悲もありゃ、愛の心もあるのです、しかも、その愛の心というのはダブダブするようなものではなくて、ね、父性愛、母性愛を兼ね備えた愛の心が頂けれるのです。
ですから、根本になるものは大地の心、大地の心を私共が分からせてもろうて、大地の心を心としていてく生き方を私はここでは成り行きを大切にしろ、合掌して受けていけということになる訳なんです、ね、ですから皆さん、ここんところにお互いが本気で焦点をおいてです、ね、私はみなさんの一人ひとりにです、ね、和賀心時代に突入した、そのうん、和賀心運動に私も参加させて下さいと、いうなら、( ? )頂きたい思いが致します。ね。
そしてです、和賀心になればこのようなおかげが受けられるというそのおかげの見本がでけた時です、合楽が、いうならば、世界の市場に進出していく事が出来る時だと私は信じております。ね。それは、私の時代に出来なかったら、子供が孫が、それは千年万年かかるかも分かりません、世界中の隅々に、それは月の世界に人間が行くほどしにかかるかも分かりません、けれども私は皆さんに言っている、ね、人間が月の世界にすらいけれるようになったんだからです、ね、私共がいう、あの世に行ける時代が必ずくるって、ね、それこそ、団体バスでです、旅行行って帰ってこられる、そんかわりちょっと間違うたら帰ってこられんです、月の世界でもそげんなんもんね、ちょこっとまちごうたらすうっと行ったぎりになるげな、(笑い)それけんで、やっぱあの世にでも行ったぎりなちゃやっぱつまりませんからね、
(途中切れ)
末永静行
2007年3月10日